泣き虫パンダと慰め役のセバスチャン

不器用な新人社会人が世の中を生き抜くための処世術

不完全な人間

看護師していると完璧な仕事を求められます。

当たり前です。

人命を扱ってるわけですから。

でも、看護師とて一人の人間。

ミスすることもあれば、失敗することもあります。

 


なるべくなら患者様に痛い思いや辛い思いをしてほしくないので、完璧な手技や看護を行いたいものですが、常に完璧でいるというのはなかなか難しいです。

 


人間はなぜこうも不完全なのか。

と考えてしまいますが、この話題はまた別の機会に話すことにしましょう。

 


今日は、その不完全さに対面した時の私の考えを綴っていきます。

 

*


パンダがテレビを見ていると、とある男性芸能人が謝罪会見を行っていた。

会見を見ていると、どうやら、不倫発覚後の記者会見のようだ。

黒のスーツに青いネクタイを締め、悲痛な顔で「すみません。」「申し訳ありません。」と繰り返す男性を、女性記者がぐるっと囲み、これでもかと言わんばかりに厳しい質問を投げかけている。

「これはやりすぎね。」

一緒に見ていてセバスチャンが呆れ顔で呟く。

「不倫なんて家族間の問題なんだから、こうやって謝罪会見されてもって感じなんだけど、どうして、毎度毎度やってるんだろう。」

「芸能人はイメージ商売。そのイメージを裏切ったってことでの謝罪、ってとこかしらね。とにかく何か悪いことしたら、それがなんであれ大々的に謝らせて、ケジメをつけるって感じかしら。でも、こんな会見ならしない方がマシだったわ。」

「本当だね。」

そう言ってパンダはチャンネルを変えた。

「人は大なり小なり皆んな罪を犯してるはずなのに、目の前にわかりやすく罪を犯した人がいれば、ここぞとばかりに罪を糾弾しちゃうのよ。目の前にいる人は悪人で、正義の味方の私が正してあげなきゃいけないって。飛んだ勘違いよ。まあ、それが人間の不完全さから来るものだ、と言ってしまったらそれまでなんだけど。」

「私も気をつけよ。言葉は強いからね。」

 

*


このネタちょっと古いですかね。

でもみていた当時思っていたことをようやく言えました。

 


私はたまに聖書を読むのですが、聖書の有名なエピソードに「姦通の女」というエピソードがあります。

姦通というのは、“配偶者がいるにもかかわらず他の人と不義の交わりを持つこと”で、今回出てきた不倫はまさに姦通に当てはまるわけです。

この罪を犯した女性は、当時石打ちの死刑にされることになっており、律法学者は主イエスに判断を求めました。

すると主イエスは「あなたたちの中で罪のないものだけが石を投げよ。」と言いました。

その言葉を聞いた途端、その場にいた者は一人また一人とその場を立ち去り、誰も石を投げることが出来なかった。というエピソードです。

このエピソードは、人は誰しも罪を犯しており、誰も人を捌く権利や資格は持っていない。誰かが罪を犯したら、それは背景にある社会的責任のためで、その責任は社会全ての人にある、ということを意味してるそうです。

 


現代ではどうでしょうか。

いくら人には捌く権利がないと言っても、法治国家ですから、法律を犯せば裁かれるのは当然ですね。

では今回のように、事の部外者が必要以上に罪を糾弾する必要は、どこにあるのでしょうか。

たとえ誰かが間違いを犯していても、全くその人の人生に関わってない人が正してあげようと思い、口先だけで攻撃するというのは、大変厚かましく気持ちの悪い事だと私は思います。

だからこそ、私も気をつけたい。

言葉の威力は、自分が思っているより強大で、人を生かすことも殺すことも簡単にできますから。